昭和五十年十二月八日              御理解             第八十四節

奢りがましい事をすな ものは細うても永う続かねば繁盛でないぞ 細い道でも次第に踏み広げて通るのは繁昌ぢや 道に草を生やすやうな事をすな。

今教団で、今までのお道の信心の進め方に何処か欠陥があるんだ、間違いがあったんだとして、其の事の何処をどう改まって行ったら良いかといった様な事が、問題になって来年の五月ですか、を期して新たな金光教のいうなら革命とまで言われる程しの討議が、もう日々あらゆるグル一プ、あらゆる層に応じての会合が所謂会議があっとります。
又其のことで秋永先生が明日からですか、信者層でのそうした話し合いの為に本部の方え行かれる、私共より一日早く行かれる訳です。
そりや本当に教団を挙げて、その事に取り組んどる訳です、いうならば御取次成就信心生活運動という運動が展開されて、もう本当に金光教の信心の一番素晴らしい、金光教を表現するのに、こんな相応しい言葉は無いと思う位ですね。
御取次成就信心生活運動という事、所謂天地金の神様の御心を教祖混交大神が、御取次をなさる、世の中に何んぼうも難儀な氏子がある、取次助けてやってくれと言う、神様の御依頼があって、その御依頼が成就してゆく、神様の願いが成就してゆく、という事の為の運動です、なんです。御取次が成就してゆく、世界中にこの御取次が成就してゆく、そういう素晴らしいいうならば、一つの旗印を掲げての運動が始まったのですけれども、全然それが進展しなかった、二十何年間。
むしろ其れが後退して来た、そこで其の内容は立派なんだけれども、其の内容がいけんのだらうと言う様な、事になって来た訳ですね。正しく細うても踏み広げて通らにやいけんのに、道に草を生やす様な事になって来た。それは奢りがましい事になって来たという事です。
奢りがましいという事は、例えばどう言う事かと言うとです、私は金光教の場合には、あまり高く止まり過ぎたんだらうと思いますね。
金光教の信心はふれ売りはしない、又祈念祈祷で助かるのではない、話を聞いて助かるのだ、表行よりは心行といった様にです、もう誰でもが、成る程金光教の信心ちゃ素晴らしいと思うような、言うならば、教えの掲げ方というか、ですから信心臭がない、信心臭さがない、いうならば本当に道理に会い過ぎとる様な感じがするのである。だから、事実そうなのですけれども、どうしても其処には一つのまあ惰性と言うか、其の欠陥と言うか、それが一つの惰性の様になって、本当の信心の神髄にふれる事の出来ない事に、欠陥になっておるのが現在の教団の在り方ではなからうかと、こう思うです。
会楽でも表行を廃して心行という事になって来たら、確かに誤間化そうと思うたら何んなにでも誤間化される、断食なら断食、水行なら水行、もう一日はない。例えばそれを誤間化す訳にいかん、誤間化されん形の上の事だから、ところが心の上の行ですから、もう誤間化そうと思うたら誤間化されないという訳である。大体それが本当なのだけれども、そういう一つ本気で心行に取り組むと言ったような事我です、出来かねる様な気がする。そこでなら表行は、廃したのですから、せめてそれに代わる行がなされる其れが心行なのですけれども、少し形に現れる心行の伴った修行が、なされなければならんのぢやなからうか。
教祖のまたのみ教えの中に、神を拝む者は拍手して、神前に向かうてからは、例え槍先で突かれても、後ろえ振り向く事はならぬぞ、物音や、物声を聞く様では神餌一心は届かぬ。という様な厳しい神様えの向かい方と云うものを教えておられる。
そういうものが欠けて来た様にある。そこで御祈念なら、御祈念と修行と云う様なものが、私は会楽には表行に取って代わって、心行その心行に伴うところの神前でのそういう祈念修行と云った様なものが欠けて来た。そういうものをなされなければいかん、日に大祓い百巻、又は五十巻、日に十巻、それは自分の信心で決めてゆけばよいのです。例えば本当大祓いを上げなくともです、なら私の様に四時から五時までの間をもうそれこそ心行くまで御祈念に打ち込む、ポンポンと拍手打って拝んで御理解だけ頂いて帰ればよい、という様な事ではなくて、本当にそういうこの信心に厳しさと云った様なものがね、無くなって来た。そこに自然草が生える様になり、広い道がかえって狭くなる様な結果になって来た。今後の金光教の中にはこの頃から頂きます、いろいろな行き方、在り方の中にです、本当に神様が示現し給う、神様が御発動なされる為に、神様のその御発動を受ける為の信心を、会楽では何時も説かせて頂くんだけれども、云うなら槍先で突かれても後ろを振り向かん位な、一心不乱の所謂、祈念と云った様なものがなされなければいけんのぢやなかろうか。
私はうちの修行生の方たちに、まあこの頃心行心行で、ですから各自心行出来よりましょうむけど、やっぱり何処にかこう抜けた様なものを感ずる。だから本当に夜夜中です、でもならお広前に出て来て大祓いの五巻でも十巻でも上げて、兎に角神様に一心不乱に向かう、と云った修行をこれは奨励しなければいけない。これは修行生だけではない信者一同にもそういう修行をさして貰う、断食でもぢゃない、水行ぢゃない、火の行水の行ぢやない、神様え打ち向かう修行、これは如何にも表行に似とるけれども、表行ぢやないそれには心行が伴うとる、余りに御祈念をおろそかににして来た、特に会楽では御理解中心ですから、どうしても御祈念の方がおろそかになって来る。そこで御祈念をやはり自分の家でです、本気で取り組まねばいけんのぢゃないかと。
即日は丸小の父兄会でしたから、父兄会が終わった後に、いつも私が一時間ばかりお話をさせてもらう様になっとる、中で私はお話をさせて頂いた事ですけど、昨日の晩出下、昨日も話しましたが、文男先生が足を揉んでくれながら、私に話をしてくれた事を、話した事です。というのは先生の裁縫を頼んでおる、断物師さんですかね、裁縫師さん、それは男の方で、まあ普通で言うならまあ普通、一寸頭の足りない人、八合とか七合とかいひますかね、まあ七合しかなからしいです。
ところが他のことは何も出来んけれどもね、その着物を縫われる事だけには、キチッとした仕事をなさるそうです。
それが一番初め、私が頼みよった頃は、それこそ小屋の様な家似住んぢゃつた、それがねこの頃行くたんびに梅屋さんあんたも創価学会に入らんかと言われる、私が創価学会に入ったのは、そこに導きと云うですか、折伏に来た人が、あんたが十年間、お題目を朝百遍、夜百遍唱えるなら、必ず十年後には立派な普請が出来ると云ったそうです。
だから人間が単純ですからそれだけに、それは本当に確信を以て、それを云われてからですね、そんならと云うて直ぐ入ったそうです。それからというものはもう本当に、南無妙法蓮華経をですね、百遍宛て朝と晩に唱えるようにした、南無妙法蓮華経百遍だから大した時間かからんと思うですよ、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、一生懸命唱える、だから一寸私共聞いておかしいよう、百遍も唱えよる内には、この頃は唱えよる内に有り難うなって二時間位、御本尊様の前で立とうごとなって来たと云ったそうです。
と云う事はどういう事かと云うと、仏様に打ち向かうておるその姿が、もうそのままね、もう後に振り向かうとはしない行き方であると同時に、そうして一生懸命にお題目を唱えておる内に、自分の心が清まって来るのです。心の中に安心が出来て来るのです。心の中が落ち着いて来るのですそして話を聞く内に、例えば一日に、二枚仕上げよったのが三枚仕上げられるそうです。それで一枚宛でも残ったら十年したら家は建つでしようね。という事は昨日の御理解ぢやないけれども、人が五時間働くところは六時間働くと云うこと、それこそ時は金なり時は徳なりである。
寸暇を惜しんで仕事に励むと云う事である。なら仏様を拝むと云うことも、それこそ、南無妙法蓮華経を、いわばお題目を百遍どんな事があっても唱える。
心が安らぐ、心が清まる、心が何となく嬉しくなる、御仏前から離れようごとなかごと御祈念が有り難うなる。これには娘やら息子たちがついて来て、最近あっちに行くと息子やら娘たちの青年、もう青年会でしょうね。青年会の方たちのグル一プが集まって話をしておる。それから会合というたら絶対、御本部参拝、御本部参拝というか何か知らんけど、本部の方え参られる時何か、どんな険しい物持って行っても、梅屋さん私がついて神様得、仏様え向うとる時は駄目だと、絶対断るそうです。どんなにそれが条件の良いものであっても、そうして見るとですこれは私は、話を聞かんでも御祈念からでも、素晴らしい境地に向かって行けれる事がわかるですね。勿論おかげにも繋がって行けれる事がわかりますよ。その上話を頂いて、いうなら本心の玉を研き改まって行くなら、徳が受けられないはずがない。
私は今の金光教にはそういうものが、欠けてきたのではなかろうかと思うです。
創価学会の初代でしょうかね、戸田城聖とか云われる方、まあ思想犯ですかね、刑務所に二年間つながれておったその獄窓でです。その自分の子供に手紙を書いておられる、この事を昨日丸小のお母さん方に聞いて頂いたんです。そのまだ十一才にしかならない子供さんに手紙を書いておられます。そしてその手紙の中にです、僕の一日の中で一番都合の良い時間を知らせてくれと、そして僕の一番都合良い時間にお題目百遍唱えなさい、お父さんも僕が唱える時間に必ず百遍唱える。そこにね云うならば獄内獄外にあっても必ず親子の交流が、必ずあるとお父さんは信ずる。これは親子同盟だよとかいてある。
私はその親子同盟と書いてあるところに非常に感激したです。だから昨日お母さんたちに、あんた達はどげな風の朝晩の御祈念はしよるの、夜なんかはしっかり御祈念をさして頂いて、ようお母さんが神に一生懸命に内向かう姿をまず見せておいて、そして子供と都合ようお話をする時にです、あんたも大祓いを一緒にお神様を拝もうぢやないの、大祓いを覚えなさい、天地書附を覚えなさい、拝詞を覚えなさいというて、その親子同盟を作ってゆく様な行き方をするならね、信心の継承は間違いないと私が申しました。信心の継承という事は大変この頃は危ぶまれておるのです、どこでもそれが悩みの種だと云われとるのです、金光教は。そういう確信に満ちたです、同じ時間に同じ題目を百変唱える僕の一番都合良い時間に、僕が唱えるその時間にお父さんも唱える、必ずや獄窓内、獄外にあってもです、親子の交流が出来ると思うと云う、云わば子供さんに対する信心の教育をしとります。
ね、親子同盟が良いぢやないてせすか、そして家の中にそういう御祈念の雰囲気と云う、有り難い雰囲気と云うものを作ってゆく事にこの頃の金光教は、欠けておると思います。
ポンポンと手を打って、天津祝詞を奏上して、天地書附をして、それで御祈念したつもりでおる様な事では、自分の心行くまでの御祈念、心行くまでの御祈念をそして頂いて、神様えそういう一心を向けるところからです、その間だけでも心が喜びに満ちて来る、心が平静になる、安心が生まれる、喜びがわく、その文男先生が云うその人がです、そして仏様に向かうたら、たまには二時間位お題目を上げておる事があると、離れたくないごとあると云う話を文男先生聞いてきてです、私にそんな話をしてくれて、私は今日改めてその事を思うてみて、この八十四節を頂いて、所謂奢りがましい事をすなという事は、金光教があまりにも高く止まり過ぎて来たんだ、あんまり品が良くなり過ぎたんだと思います。
まあもう金光様の信者ちやもう拝むこつばかり拝うちからという事は言わん、私が椛目時代に、まだ信者時代にです、すぐ後が道でしたが、ほんに金光様ちゃどうしてあげん拝まんならんぢやろうかという位、私共方では御祈念が絶えなかったです。
家族中の物が拝みますからその拝むという事は如何にもね、この方の道は、祈念、祈祷で助かるのぢゃないと、云われるけれども拝むという事がです、神に向かうたら槍で後から突かれる様な事があっても、振り向かんですむ位、迫力のある御祈念をさして頂くうちにです、心が清まるです、心が安心が生まれて来るです。心に信心の喜びが湧いてくるです。此処におかげの受けものが既に出来たのです。

その方は所謂折伏を受けてです、そして十年の後にはそういう家に住んどった人がです、十年すりゃ見よてんなさい、あなたは立派な家を建てるおかげを受けられると云う、それに通りに建てられた訳ぢやないけぢ、りっぱな家を買われてそこに移り住まわれたと云う、話をしております。他山の石です。他所事ぢゃない本当に良いものは本当に取り入れてゆかにやいかんです。そして今金光教で欠けておるものは、私は金光教全体が奢りがましうなって来た事、余りに品が良くなり過ぎた事、金光教ぢゃそげん拝んだり御祈念やらは、あんまり充点「重点」を置かない、それこそ心が清まるまでの、云うならば御祈念なんかしない、心に喜びが湧く迄の云うならば、御祈念やらをしないザ一ツとなって来た、だから一般向けには非常によかわけです、成る程信心に品がよい、品がようなり過ぎた、そして道に草を生やす様担って、道が狭うなって来た、そこに気づかせて頂いて、この頃から頂く様に蓮根畑をうづめて行く様な、在り方からです本当に後にある開墾される筈のところを開墾して行かねばならない、信心と同時にです、私は今日皆さんに聞いて頂く様なところがです、なされなければいけん、まず一つ会楽から、会楽では表行せんのですから、せめて私は早速今日からです、そう云う例えば大祓、問題は自分の心の中に喜びが湧く位までです、一つ大祓を十巻でも二十巻でも上げられる様な時間をね、作ると云う事が取りも直さず昨日の御理解から云うとです、時は徳なりと云う事にもなるのです。神様に打ち向かう時間がそれだけ長くなるのですから、そういう例えば信心をさせて頂くならです、子供でも孫でもついて来ない筈はない、後からついて来る様になる、親子同盟が出来る様になる。
唯お座なりな御祈念やらはもう本当につまらん、せんよりましと云う様な事ですけれども、それではです信心の値打ちがない、信心で心が清まるとか、安めるとか、そういう安らぎも受けられない様な、心が落ち着く様な、不安がけし飛ぶ様な、いわばそう云う効果が御祈念にはあると云う事です。
私もまあ会楽から、そう云う様な事を本部えも間接的ではありますけれども、おかげの泉ならおかげの泉を以て、提言して行きたいと思います。
金光教が、金光教団が奢りがましい事になって来た、奢りがましい事が、高うとまっておった、そして金光教はなかなか品がよいと云うふうに、信心のない人達は、定評づける様になって来た、私は此処んところに今日は気が付いた。チッタア金光様の匂いがプンプンする様な、あそこはいつ行ったっちや拝みよって、拝みよってと云う様にです、一つ拝む事を本気で、私はしなければいけない、それは拝む事だけぢやない必ず、それは心行に繋がる、おかげの受けられる状態が頂ける。それに訳を聞いて助かる道である。所謂、話を聞いて心が開けて来ると云う、そう云う相待った信心を今これからの金光教、云うならば会楽では早速それに取り組んで、そう云う修行に入ります。皆さんこれは会楽教会の中の事ではない、自分の家のことである、ですよね。ここで大祓を上げる訳を聞いてそれこそ、それが中心ですからガンガンやられたんでは、お話が頂きにくいんですし、また此処でお話が頂きにくい、だから家に帰っての信心がです、どうでも一つ今晩からでもです、あのせめて、大祓十巻位はね、上げさせて頂くと本当に有り難いです確かに。然もね、自分の気持ちのよかときだけでなくて、これは絶対、なら夫婦弟、親子弟、家族でそれが続けられ親子の云うなら、親子同盟、夫婦同盟、も出来ましようバイね。
そして私は道が狭うなって来たと云うが、道に草を生やして来たと云うが、その草を取らせて頂く事にもなりゃ、道を拡げて行く事の、一つのまあ手段とでも申しましょうかね。そう云う私は信心の、これからの金光教には必要だと、それこそ御祈念が必要なんては誰も教団では言っていないです。御祈念は誰でもしよるです、ばってんいっちょん、神に届く、そんな御祈念をしよらんです。それにはそれこそ、創価学会の方たちがです、お題目修行をなさる様にです、百回でも三百回でも、南無妙法蓮華経を唱えている内にです、おかげの頂ける状態がです、小屋の様な家に住んどった人が、十年後には立派な家を建てたと言う様な、おかげにつながらない筈がないです。そう言う一つおかげを頂きたいと思いますね。どうぞ。